2009-04-23
樺太千島交換条約

今は昔の話だが『北方領土』とはいったい何処から何処までか?てな話を大の大人が、集まって合議した事がある。
私見は歴史上からも全千島列島の事だと主張したのだが「どうせ返さないのだから何処でもいいじゃないか」という不謹慎な意見が大勢を占めて、曖昧なまま結論を見出せなかった記憶がある。


政府見解の4島を大半は要求しているみたいだが、2島だの3,5島だのと現在でも亡霊のような話が浮き沈みしている。 結局は、その不謹慎な意見でもそれが不謹慎じゃ無かったのかも知れない。
一番、不謹慎だったのは安易に4島で妥協した日本政府のような気がしてならない!
明日の記事を作成中だが昨日、長崎で ヤクルトもデントナくらいデントナ!
と揶揄したら佐賀でデントナに早々とHRを一発喰らっちまった。
結局は8回逆転3ー2 渋いねぇ!と勝利しました。 独走です。
ラヂオを聞いてて原稿制作に不必要な時間を要し明けて当日です。スマップの草薙が公然猥褻で逮捕(当社もTBSに抗議して逮捕されています。)

________________________________________

樺太千島交換条約
1875年5月7日 「セント・ピータースブルグ」ニ於テ署名
1875年8月22日 東京ニ於テ批准書交換

 大日本国皇帝陛下ト
 全露西亜国皇帝陛下ハ今般樺太島(即薩哈嗹島)是迄両国雑領ノ地タルニ由リテ屡次其ノ間ニ起レル紛議ノ根ヲ断チ現下両国間ニ存スル交誼ヲ堅牢ナラシメンカ為メ
 大日本国皇帝陛下ハ樺太島(即薩哈嗹島)上ニ存スル領地ノ権理
 全露西亜国皇帝陛下ハ「クリル」群島上ニ存スル領地ノ権利ヲ互ニ相交換スルノ約ヲ結ント欲シ
 大日本国皇帝陛下ハ海軍中将兼在露京特命全権公使従四位榎本武揚ニ其全権ヲ任シ
 全露西亜国皇帝陛下ハ太政大臣金剛石装飾露帝照像金剛石装飾露国「シント、アンドレアス」褒牌「シント、ウラジミル」一等褒牌「アレキサンドル、ネフスキー」褒牌白鷲褒牌「シント、アンナ」一等褒牌及「シント、スタニスラス」一等褒牌仏蘭西国「レジウン、ド、オノール」大十字褒牌西班牙国金膜大十字褒牌澳太利国「シント、エチーネ」大十字褒牌金剛石装飾露生国黒鷲褒牌及其他諸国ノ諸褒牌ヲ帯ル公爵「アレキサンドル・ゴルチャコフ」ニ其全権ヲ任ゼリ
 右各全権ノ者左ノ条款ヲ協議シテ相決定ス
    第一款
 大日本国皇帝陛下ハ其ノ後胤ニ至ル迄現今樺太島(即薩哈嗹島)ノ一部ヲ所領スルノ権理及君主ニ属スル一切ノ権理ヲ全露西亜国皇帝陛下ニ譲リ而今而後樺太全島ハ悉ク露西亜帝国ニ属シ「ラペルーズ」海峡ヲ以テ両国ノ境界トス
    第二款
 全露西亜国皇帝陛下ハ第一款ニ記セル樺太島(即薩哈嗹島)ノ権理ヲ受シ代トシテ其後胤ニ至ル迄現今所領「クリル」群島即チ第一「シュムシュ」島第二「アライド」島第三「パラムシル」島第四「マカンルシ」島第五「ヲネコタン」島第六「ハリムコタン」島第七「ヱカルマ」島第八「シャスコタン」島第九「ムシル」島第十「ライコケ」島第十一「マツア」島第十二「ラスツア」島第十三「スレドネワ」及「ウシシル」島第十四「ケトイ」島第十五「シムシル」島第十六「ブロトン」島第十七「チェルポイ」並ニ「ブラット、チェルポヱフ」島第十八「ウルップ」島共計十八島ノ権理及び君主ニ属スル一切ノ権理ヲ大日本国皇帝陛下ニ譲り而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ柬察加地方「ラパッカ」岬ト「シュムシュ」島ノ間ナル海峡ヲ以テ両国ノ境界トス
(以下略)


明治8年5月7日即1875年4月25日/5月7日 比特堡府ニ於テ
榎本武揚 (印)
ゴルチャコフ (印)

________________________________________


 明治政府が誕生して新しい時代を迎えた1869年(明治2年)、北方開拓のために「開拓使」が置かれ、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は郡制の中に組み入れられました。
 樺太では、ロシアが日本の根拠地に迫ってきたため、樺太を北上して漁場を拡張しつつあった日本人との間に紛争が絶えませんでした。ロシア人は確実に要所を狙って植民地を建設していくのに対して、日本は漁場の拡張に主眼を置いていたため、次第に圧迫されるようになりました。


 このような現状を打破するため、明治政府は1874年(明治7年)に榎本武揚を特命全権大使としてロシアに派遣し、翌1875年(明治8年)5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ首相との間で「樺太千島交換条約」を締結しました。 この条約によって、「日魯通好条約」で両国民混住の地とされた樺太全島はロシア領となり、その代りに、ロシア領であったクリル諸島(得撫島から占守島までの18島)が日本の領土となりました。
 その後、内政が充実するにしたがって、北の地域の開拓や警備も進められていきました。しかし、色丹島、国後島、択捉島には村役場が置かれ、行政組織もはっきりするようになりましたが、得撫島から北の島々には村は置かれなかったため、開発は遅れがちでした。
 このことを心配した郡司成忠(ぐんじしげただ)は、1893年(明治26年)、外国から千島列島を守るとともに、開発を進めようと考え、千島報效義会(ちしまほうこうぎかい)を興しました。そして、占守島、捨子古丹島、幌筵島にそれぞれ隊員を上陸させ、越冬を試みました。
 しかし、捨子古丹島と幌筵島の隊員は全員病死するという結果になり、北千島の自然の厳しさと、開拓の困難さがわかりました。そして、1904年(明治37年)に日露戦争が始まり、多くの隊員が引き揚げてしまったため、失敗に終わりました。
 日露戦争は、1904年(明治37年)2月に始まり、翌年8月にアメリカのルーズヴェルト大統領の斡旋によってポーツマス講和会議が開かれるまで、18か月にわたって日本とロシアの間で戦われました。
 1か月に及び交渉が行われた結果、1905年(明治38年)9月5日に「日露講和条約(ポーツマス講和条約)」調印、同年10月16日に批准され、11月25日にワシントンで批准書が交換されました。
 この条約によって、樺太の北緯50度より南の部分は、ロシアから日本に譲渡されました。

この段落上記より引用

原点に帰った方がよいのでは!