2009-05-07
谷内氏 北方領土「3・5島」報道は捏造
明治八年五月七日を想い起せ!

 中曽根弘文外相は20日、毎日新聞のインタビューで北方領土問題に関し「個人的には3・5島返還でもいい」と発言したとされる谷内正太郎政府代表から電話で事情聴取し、「誤解を与えたのは遺憾だ」として厳重注意した。藪中三十二外務事務次官が同日午後の記者会見で明らかにした。
記事本文の続き 一方、谷内氏の進退に関して藪中氏は「本人も反省している。それ以上のことは特段考えていない」と述べた。
 藪中氏によると、外相は同日午前、訪米中の谷内氏に電話。谷内氏は「3・5島返還でもいいのではないかという発言はしていないが、全体の発言の流れの中で、誤解を与えるような発言があったかもしれない。結果として関係者に誤解を与えてしまったことは遺憾だ」と釈明。外相の注意に谷内氏は「深く反省している」と述べたという。

谷内正太郎・政府代表 

前外務事務次官の谷内正太郎(やち・しょうたろう)政府代表(65)が4月17日付の毎日新聞朝刊で、北方領土問題に関し「個人的には3.5島返還でもいいのではないかと考えている」と語ったと報じられた問題で、谷内氏は4月17日、産経新聞の取材に「そうした発言はしておらず、記事は捏造(ねつぞう)されたものだ」と明確に否定した。

なぜ毎日新聞があのような内容の報道をしたのでしょうか。不可解な点がいくつかあります。まず、毎日新聞によると、谷内氏のインタビューは4月9日に行われたそうですが、報道されたのは16日で1週間の時間差(タイムラグ)があります。もし、毎日新聞が「谷内氏の発言は政府方針を変更するものだ」ととらえたのであれば、インタビュー翌日の10日に報道したはずです。


 三十数年前の曖昧な決断も、今回の毎日新聞の記事もロシア国内でも報道されました。
誤ったメッセージをロシアに与え、北方領土交渉を難しくさせてしまう必然性があったのです。
権利主張を毅然と為せない結果が今日の領土交渉に表れています。
交渉の基本は『樺太千島交換条約』でなくてはなりません。

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樺太千島交換条約
1875年5月7日 「セント・ピータースブルグ」ニ於テ署名
1875年8月22日 東京ニ於テ批准書交換

 大日本国皇帝陛下ト
 全露西亜国皇帝陛下ハ今般樺太島(即薩哈嗹島)是迄両国雑領ノ地タルニ由リテ屡次其ノ間ニ起レル紛議ノ根ヲ断チ現下両国間ニ存スル交誼ヲ堅牢ナラシメンカ為メ
 大日本国皇帝陛下ハ樺太島(即薩哈嗹島)上ニ存スル領地ノ権理
 全露西亜国皇帝陛下ハ「クリル」群島上ニ存スル領地ノ権利ヲ互ニ相交換スルノ約ヲ結ント欲シ
 大日本国皇帝陛下ハ海軍中将兼在露京特命全権公使従四位榎本武揚ニ其全権ヲ任シ
 全露西亜国皇帝陛下ハ太政大臣金剛石装飾露帝照像金剛石装飾露国「シント、アンドレアス」褒牌「シント、ウラジミル」一等褒牌「アレキサンドル、ネフスキー」褒牌白鷲褒牌「シント、アンナ」一等褒牌及「シント、スタニスラス」一等褒牌仏蘭西国「レジウン、ド、オノール」大十字褒牌西班牙国金膜大十字褒牌澳太利国「シント、エチーネ」大十字褒牌金剛石装飾露生国黒鷲褒牌及其他諸国ノ諸褒牌ヲ帯ル公爵「アレキサンドル・ゴルチャコフ」ニ其全権ヲ任ゼリ
 右各全権ノ者左ノ条款ヲ協議シテ相決定ス
    第一款
 大日本国皇帝陛下ハ其ノ後胤ニ至ル迄現今樺太島(即薩哈嗹島)ノ一部ヲ所領スルノ権理及君主ニ属スル一切ノ権理ヲ全露西亜国皇帝陛下ニ譲リ而今而後樺太全島ハ悉ク露西亜帝国ニ属シ「ラペルーズ」海峡ヲ以テ両国ノ境界トス
    第二款
 全露西亜国皇帝陛下ハ第一款ニ記セル樺太島(即薩哈嗹島)ノ権理ヲ受シ代トシテ其後胤ニ至ル迄現今所領「クリル」群島即チ第一「シュムシュ」島第二「アライド」島第三「パラムシル」島第四「マカンルシ」島第五「ヲネコタン」島第六「ハリムコタン」島第七「ヱカルマ」島第八「シャスコタン」島第九「ムシル」島第十「ライコケ」島第十一「マツア」島第十二「ラスツア」島第十三「スレドネワ」及「ウシシル」島第十四「ケトイ」島第十五「シムシル」島第十六「ブロトン」島第十七「チェルポイ」並ニ「ブラット、チェルポヱフ」島第十八「ウルップ」島共計十八島ノ権理及び君主ニ属スル一切ノ権理ヲ大日本国皇帝陛下ニ譲り而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ柬察加地方「ラパッカ」岬ト「シュムシュ」島ノ間ナル海峡ヲ以テ両国ノ境界トス
(以下略)


明治8年5月7日即1875年4月25日/5月7日 比特堡府ニ於テ
榎本武揚 (印)
ゴルチャコフ (印)

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 明治政府が誕生して新しい時代を迎えた1869年(明治2年)、北方開拓のために「開拓使」が置かれ、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は郡制の中に組み入れられました。
 樺太では、ロシアが日本の根拠地に迫ってきたため、樺太を北上して漁場を拡張しつつあった日本人との間に紛争が絶えませんでした。ロシア人は確実に要所を狙って植民地を建設していくのに対して、日本は漁場の拡張に主眼を置いていたため、次第に圧迫されるようになりました。


 このような現状を打破するため、明治政府は1874年(明治7年)に榎本武揚を特命全権大使としてロシアに派遣し、翌1875年(明治8年)5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ首相との間で「樺太千島交換条約」を締結しました。 この条約によって、「日魯通好条約」で両国民混住の地とされた樺太全島はロシア領となり、その代りに、ロシア領であったクリル諸島(得撫島から占守島までの18島)が日本の領土となりました。
 その後、内政が充実するにしたがって、北の地域の開拓や警備も進められていきました。しかし、色丹島、国後島、択捉島には村役場が置かれ、行政組織もはっきりするようになりましたが、得撫島から北の島々には村は置かれなかったため、開発は遅れがちでした。
 このことを心配した郡司成忠(ぐんじしげただ)は、1893年(明治26年)、外国から千島列島を守るとともに、開発を進めようと考え、千島報效義会(ちしまほうこうぎかい)を興しました。そして、占守島、捨子古丹島、幌筵島にそれぞれ隊員を上陸させ、越冬を試みました。
 しかし、捨子古丹島と幌筵島の隊員は全員病死するという結果になり、北千島の自然の厳しさと、開拓の困難さがわかりました。そして、1904年(明治37年)に日露戦争が始まり、多くの隊員が引き揚げてしまったため、失敗に終わりました。
日露戦争は、1904年(明治37年)2月に始まり、翌年8月にアメリカのルーズヴェルト大統領の斡旋によってポーツマス講和会議が開かれるまで、18か月にわたって日本とロシアの間で戦われました。
 1か月に及び交渉が行われた結果、1905年(明治38年)9月5日に「日露講和条約(ポーツマス講和条約)」調印、同年10月16日に批准され、11月25日にワシントンで批准書が交換されました。
 この条約によって、樺太の北緯50度より南の部分は、ロシアから日本に譲渡されました。

平和な話し合いにより、日本が北方四島と千島列島全域を領有することが確定しましたが、失ったものも大きなものでした。

あくまで平和裏に・・・・・・