2009-06-17
急速は事を破り、寧耐は事を成す。

日本郵政の西川善文社長続投に反対して更迭された鳩山邦夫前総務相は15日、総務省で退任の記者会見を開き、春ごろに麻生太郎首相から、西川氏の後継候補者リストを示されていたことを明らかにした。首相が手紙を送り、「後継の人事でお悩みではないかと思います。ついては自分なりの考えで後継にふさわしい人が何人かいますから、リストを同封します」と書かれていたという。

 ところが、その後に首相は西川氏続投に転じたわけで、鳩山氏は「首相は人の進言を聞きすぎる」と批判した。

 また、首相が鳩山氏更迭の理由を「民間の事業に対し国が直接介入するのは努めて避けるべきだ」と説明したことについて、「まったく誤った考え方だ。公的な会社に政府が口をはさんで誤りを正さなければならない」と反論した。

 今後の対応については、「いま自民党離党とか、新党を作るとかは頭にまったくない」と当面の離党を否定。その上で「未来永劫(えいごう)ないかと言われれば、あるべき姿が別にあれば行動は取る」と含みを持たせた。

 一方、鳩山氏は「私は首相が大好きで、信頼して、ここまできた。今もその気持ちに何ら変化はない」とも強調し、愛憎半ばの心境をのぞかせた。(産経新聞)

 鳩山邦夫総務相(60)は12日、日本郵政の西川善文社長(70)の退任を求める自らの考えが受け入れられなかったとして、麻生太郎首相(68)に辞表を提出、受理された。西川氏続投の方針を拒んだため、首相が鳩山氏を事実上更迭した。
記事本文の続き 「西郷隆盛翁が征韓論(遣韓論)のとき、ずっと(岩倉具視(ともみ)と)もめ続けて最後に『岩倉公、過てり』と叫ぶ。西郷も信念の人だから、自分が正しいと思ったことが通用しなかったので潔く去った。わたしも政府、内閣を去ることは躊躇(ちゆうちよ)しなかった。正しいことが通用しないと思ったら潔く去るのが良い

征韓論(せいかんろん)は、日本の明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張である(ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と言う説もある)。
江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。
明治維新後に対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された。朝鮮では国王の父の大院君が政を摂し、鎖国攘夷の策をとり、意気おおいにあがっていた。明治3年2月、明治政府は佐田白茅、森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後に征韓を建白した。[2]9月には、外務権少丞吉岡弘毅を釜山に遣り、明治5年1月には、対馬旧藩主を外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派した。朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、4月、5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰した。
明治6年6月森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成した。いったんは、明治6年(1873年)8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、同年9月に帰国した岩倉使節団の大久保利通、岩倉具視・木戸孝允らは時期尚早としてこれに反対、同年10月に遣韓中止が決定された。収拾に窮した太政大臣三条は病に倒れた。その結果、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野(征韓論政変または明治六年政変)し、1874年の佐賀の乱から1877年の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動の起点となった。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 鳩山氏は辞表提出後、記者団にこう語った。
 会見の最後も「政府に尋問の筋これあり」(政府を糾弾する理由がわれわれにはある)という、西郷が西南戦争で挙兵する際に掲げた言葉で締めくくった。
「世上の毀誉軽きこと塵に似たり。」
 自らを西郷隆盛に重ね合わせるほど、鳩山氏にとって西川社長の辞任要求はあくまで「正義の戦い」だった。政権を窮地に追い込んだという自責の念はみじんもない。
 この日、東京都台東区の谷中霊園で、自民党初代総裁で元首相の祖父・一郎氏、元外相の父・威一郎(いいちろう)氏の墓前で更迭を報告。「祖父もおやじも分かってくれるでしょう。正しいことをして潔く去るんだったら自民党初代総裁も分かってくれるよ」と語った。

鳩山 一郎(1883年(明治16年)1月1日 - 1959年(昭和34年)3月7日)は、日本の政治家、弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣。正二位 大勲位。

初代自民党総裁であり、日本国とソビエト社会主義共和国連邦との二国間の国交回復を成し遂げた内閣総理大臣でもある。